子供たちの“声”

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井樫彩(撮影当時:19歳)

 「あの震災のあった福島に行ける」。何をするのかも、どんな趣旨なのかもわからぬまま、ただそれだけの理由で参加した。福島に着くと、ニュース等で流れるものとは全く違った一見平和な田舎町の農家を訪れ、農家の樽川さんの話を聞く。私はどの立場からその話を聞けば良いのかわからず、ただただ客観的に樽川さんの話に耳を傾ける。キャベツは成長しすぎるとバキバキと音を立てて花が咲く。出荷が不可能になったそれらが何千本と畑を埋め尽くし、その中で父が亡くなっていたこと。キャベツの割れる音。キャベツ畑に線香。想像した。そこに強い画がある。ふと、涙を流して聞いている他の生徒達を見た。その涙はなんの涙だ……。震災から数年、その数年で何度同じ涙を見て来たことか。皆、忘れる。忘れていく。自分のことに精一杯で、自分を生きて行くのにいっぱいいっぱいで他人のことなど構っていられない。それは誰にも責められぬことではないのかと思う。他人の人生を助けていられる余裕など多くの人にも、私にもない。心を痛めるのは一瞬だ。その痛みを忘れないということは、相当に大変な覚悟とポリシーのいるものだ。そういったものが大前提にある中で、忘れさせない為には「忘れるな」と、誰かが叫ばなければならない。
 当時、母に宛てた手紙にはこう書いてあった。「生で聞く声は非常に重いものであったし、それと同時に他人事なんだとも思ったの。どれだけ話を聞いても、その人達の気持ちには到底なれないと思った」と。

 

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井澤美采(撮影当時:16歳)

 私は生まれて初めて福島に向かいました。なにかを身構えるわけでもなく、全くもって軽い気持ちで。震災から4年半が経ち、あの頃小学六年生だった私も高校二年生になりました。日が経つにつれて、東北と自分がいる東京が地続きだということも日々の生活の中では全くと言ってよいほど思い出すことはなく、たまにTVで放送されるスペシャル番組などで見たときにふと思い出す程度でした。それは私だけではなく、私以外の多くの若者に同じだと思います。
 そして実際に樽川さんのお話を聞きました。自分の中で想像していた以上のことが起きていました。なにより、私が当たり前に過ごしていたような日常まで樽川さんからは奪われていました。当たり前は当たり前ではない、それは私もわかっていました。家族と笑いあえること、夜にぐっすり眠れること。そんな小さな幸せまでをも奪うものがこの世にあってよいのですか。そんなものまで奪ってしまったら、人間はきっと狂ってしまう。これ以上、同じことが起こらないように。忘れるな。忘れてはいけない。貴重なお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。

 

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石田佳那(撮影当時:19歳)

 私はある種の罪悪感とともに福島へと向かっていた。震災後、自らの意思で東北に何度か足を運んだものの、その後自分の日常に忙殺され、次第に足が東北から遠ざかっていたからである。被災された方の話を聞く度に胸が締め付けられる思いだったが、東京に帰ってきてからはノートに思いを少し書き留めることしか出来なかった。今回福島に向かう時には、その思いすら頭の片隅からたまに引っ張り出すようなものになってしまっていた。
 久しぶりに訪れた東北で樽川さんから伺ったお話は想像以上に私に突き刺さった。頭の隅に追いやっていた、東北で出会った方の顔が思い浮かぶ。何の脈絡もなく襲いかかった事故は、1人の人間に止むを得ず死を選択させてしまった。亡くなった樽川さんのお父さんの人生を誰が引き継げると言うのだろうか。そして残された痛みは誰も肩代わりすることはできない。樽川さんは重すぎる記憶を背負ってこれからも福島の地で生きてゆく。私は今度こそ、この記憶を大切にできるだろうか。答えが出るのかさえ分からない。ただ、今も「福島」や「原発」という言葉の先に樽川さんの顔が思い浮かぶ。

 

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一万田若葉(撮影当時:19歳)

 私は福島第一原発事故は国の対策で元通りになるものだと思っていました。大学の授業で、テレビで報道されていることと現状とでは大きく違っていることを知りました。それでも、この原発事故によりどれくらいの放射能が漏れ出し、それが人間の身体にどれほどの影響を及ぼすのか考えたこともなかった自分は、この原発事故の事の重大さを全然分かっていなかったと思いました。これから何年たっても「福島産の野菜だから危ないかも」という考えが完全に無くなるには、国がこのことにしっかり向き合ってくれることが必要であると思いました。樽川さんたちの美味しい野菜を後押しして欲しいです。

 

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内田夏奈子(撮影当時:18歳)

 震災以来、私は宮城県と岩手県にボランティアで4回程被災地を訪れていました。東日本大震災は、私にとってとても衝撃的でしたし、当時テレビに映し出される現実に、そして実際に宮城県、岩手県を訪れて被災地を見たときはただただ言葉を失ったのを覚えています。しかし、今回は福島県ということで地震の被害に加え、そこには「原発」という問題が直接的にあるのです。私は「原発」についてテレビや新聞で得た知識はあれど、正直なところあまりピンとこないのが本音でした。しかし、逆にわけのわからないものだからこそ、震災でもっとも恐怖だったのも「原発」です。それは、地震の被害のように目に見えるものに対して、放射能は目に見えない恐怖だったからだと思います。目に見える被害は、それを現実としてそれ以上の恐怖を私たちに与えることはありませんが、「原発」は、その被害以上に一人一人の頭の中で、うわさ話や勝手な思い込みからその恐怖はどんどんふくらんでいってしまいますし、自分も同じくそうでした。
 私は樽川さんのお話を聞いてそんな恐怖の中でさまざまなものと戦い、失い、それでも福島の地で生きていくという強いメッセージがこもっていると感じました。樽川さんのお話は現実とは信じられないほど生々しく厳しいものではありますが、一人でも多くの人が樽川さんのお話に耳を傾け、その現状を知って欲しいと心から思いました。

 

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金子鈴幸(撮影当時:22歳)

 私には福島との関わり、というのがほとんどありませんでした。事故後に、原発デモに参加したということくらいです。しかも、ほとんど興味本位での参加でした。2015年になり、やはり自分には事故直後にはあった恐怖の実感が薄れていました。なので今回福島の農家の方に話を聞きにいく、となって、自分で大丈夫なのか、こんな中途半端な立場の人間が行ってもいいのか、とかなり悩みました。自分と福島がどう関わってきたか、ないものを探る感覚で必死に考えていたら、ふと、ある質問が浮かびました。それを用意してから伺ったのですが、樽川さんの話のあまりの壮絶さに本当に胸が痛みました。それは単なる悲惨な話などを越えて、現実というものの理不尽さ、国家というシステムそのものの持つ脆弱性、非人間性なども考えさせられる、全ての日本人にとって他人事ではない話でした。だから非常に迷いましたが、自分が用意してきたある意味「不用意な質問」をしました。それは樽川さんが魂を削るように喋っていたことに、自分も向き合わねばならないと思ったからです。今でもあの質問をした時のモヤモヤは消えません。質問して、よかったとか、悪かったとも言えません。やっぱりあんなことは僕が言うべきじゃなかったのでは、と今でもたまに考えます。ただ、話を聞いたあと、見学した樽川さんの農場は、「いのち」を紡いでいく力強い場所でした。その場で感じた、大きい悲しみも怒りも抱えたまま生きていく「人間」の神々しさ、と言えば大げさな、と思われるかもしれませんが、それは間違いなく私の糧になり、今も、これからも、残り続けるものであると思います。

 

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樽見隼人(撮影当時:23歳)

 私は今まで福島原発の事故のことはどこか他人事で、同じ日本にいるにもかかわらず、恥ずかしい話「どこか遠いところの出来事」くらいの認識でしかありませんでした。「このままじゃいけないだろうな」というわずかな意識はあったものの、その気持ちが行動に表れることはなく、やがて福島原発のことは考えないようにして見ないふりをしてきてしまいました。
 しかし、実際に福島へ行き、樽川さんの話を聞いて感じたことは、原発事故を絶対に風化させてはならないという強い使命感でした。樽川さんが語ってくれましたが、政府の対応はあまりに酷く、先祖代々土地を守ってきた農家である樽川さんが受けた苦痛は計り知れないと思います。今テレビをつけてニュースを見ても、原発のことはほとんど放送されていません。おそらく多くの人たちが以前の私と同じように原発のことを考えたがっていないと思います。ですが、だからこそ樽川さんの声に耳を傾けてほしいです。
 私も福島へ行くまでは関心が薄かったのであまり偉そうなことは言えませんが、そんな私でもこのままじゃいけないという気持ちにさせてくれる力が樽川さんの話には籠められていました。私は樽川さんの話を聞いて涙を流しましたが、それは決して偽りではなく、あの場にいた一人の人間として純粋な感情が発露したものです。その真情の涙を思い出にしてはならないと強く感じました。この機会に福島の現状を多くの人に考えてほしいと願います。

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千葉航平(撮影当時:20歳)

 私の故郷の函館では、東北大震災で一人だけ犠牲者が出た。思い出の詰まったアルバムを家へ取りに戻ったおじいちゃんが、津波に飲み込まれたのだ。私は樽川さんに質問した。樽川さんのお父さんとそのおじいさんが頭の中で重なったからだ。二人はなぜ命を落とさなければいけなかったのか。死まで追いやられた人の心は、いくら考えてもわからない。想像が及ばない。でも、樽川さんの涙を見ながら、遺された家族のことは少しだけ分かる気がした。家族はきっと死など望んでなかったはずだ。アルバムなんて、農作物なんて。人の命と比べたら、遺される家族のことを考えたら、それほどまでに重いものだろうか。やはり、僕には分からない。だけど、いや、だからこそ、僕は考える。想像し続ける。そうでもしなければ、函館のおじいちゃんの死は、樽川さんのお父さんの死は、震災で亡くなった多くの方の死は、報われないようか気がするから。

 

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野月啓佑(撮影当時:21歳)

 原発事故以降何が起きたか、何を感じてきたか、今何を思うか……。一人の人間の実体験として聞く原発事故は、これまで文字として読んできた、知識としての原発事故とは比べ物にならないほど生々しく、「重い」ものでした。話を聞きながらそのギャップに衝撃を受け、原発への「批判」ではなく「恐怖」を感じ、と同時に、その「重くて怖い現実」から「目を背けたい」という感情が自分の中にあることに気づきました。樽川さんのまっすぐな姿勢を目の前にしていながら、それを裏切るような感情を抱いてしまう自分もまた「怖い」と思いました。
 福島から「遠い」東京の暮らしの中には、「自分に無関係な問題に関わって自分が苦しむのは馬鹿らしい」という通念があるように感じます。だから無関心でいることが許される風潮があります。意識していないと「苦しみたくない」という思いに引っ張られて、飲み込まれます。私は、だからこそ福島に行って良かったと感じています。樽川さんの言葉を聞き、表情を見、「それでも目を背けるのか?」と。今回の体験は、無関心へ逃避することなく、常に「自分と繋がっている問題」として現実を直視せよという、自らへの戒めです。

 

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宮田俊輝(撮影当時:18歳)

 「地震が起きてから福島は今、どうなってるんだろうな」
僕が福島の話に興味を持ったのはそんな思いからだった。目的地に行く道中、そこから見えた風景は都会では見れない田園風景ばかり。つい記念写真としてとってしまっていたほどだった。
 樽川さんは、そんな田んぼや畑でお米やキャベツなど野菜を作る農家の一人だ。原発事故が起こるまでは、地元でも有名な農家だった樽川さん。しかし、原発が全てをのみこんでしまった。農作物は出荷できずに無駄になり、汚染された農地は荒らされる。そして一人が命を自ら捨ててしまった。
 こんな話を聴いた僕は、必死で樽川さんの気持ちを理解しようとした。しかし、できなかった。どうしても僕の中に「罪悪感」が生まれてしまった。「原発の受益者」であったという罪悪感が。田舎は、都会ほど光り満ち溢れていない。そんな僕に樽川さんを理解する資格などない。ただ「同情」という言葉しか残らなかった。せめてもの償いに何ができるだろうと考えた時に、テレビでよくある「福島を応援」が頭をよぎった。しかし、樽川さんは「汚染された農作物を買いたくない気持ちはわかる」と自分たちが一番辛いだろうに、自ら僕の気持ちに同情してくれた。僕には、ただ涙を流すことしかできなかった。 今でもあの罪悪感は、忘れられない。樽川さんや他にも震災に苦しんだ人たちのためにもこれから先、この罪悪感を忘れずに現実に向き合っていかなくてはならない、そう思った。

 

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矢部涼介(撮影当時:21歳)

 福島には私の祖母の家もあります。原発からは距離があり、現在も元気にそこで暮らしています。放射能もそれほど強くはないということで、感じていた不安は時間が経つにつれ少しずつ薄れていきました。そして、今回この映画に携わり、事故後初めて福島へと赴くことになりました。
 そこで聞いた樽川さんの話は想像以上に深く残酷でした。特に父の死を目の当たりにした時の話は、今までテレビや新聞でしか人の死を数で知ることがなかった私にとっては、とても生々しいものでした。また、農家である樽川さんが現在も受ける放射能の被害の大きさと長さから、原発事故はまだ終わっていない、これから先もずっと続いていくのだと思うと、ゾッとしました。ただ、樽川さんの話を聞いて、これから自分がなにをしようとか、そういうことは思いませんでした。自分の身近な人が健康に暮らせているのならそれでいいという気持ちもどこかにあると思います。時間が経つにつれて、また原発事故が自分の意識から少しずつ薄れていくのかもしれません。